春一番

  私は若い頃、ふるえるような心を持っていた。そして、風が怖くてたまらなかった。家の中にいて、しっかりした壁に守られていても、自分が吹き飛ばされて粉々になってしまうような気がした。とくに、夜に聴く風の音は、たまらなく恐ろしかった。駅のホームにいて、通過電車が通って行く時の風にも、ものすごい恐怖を覚えた。一種の神経症だったのではないだろうか?
 恐ろしさに震える私を見て、私をとても可愛がってくれたおばが「〇〇ちゃん、だれでも、風は怖いのよ」となだめてくれた。そう言われると、少し気持ちが楽になるような気がするのだった。
 傷つきやすく小心者の私には、人生の途上で、時折、このおばのように、私をかばい、守ってくれる人が現れることがあった。守られている間は、おだやかな気持でいられた。だが、その人たちが去って行くと、また傷つきやすい小心者に戻ってしまう。
 そういうことを繰り返しているうちに、私は、少しずつ齢をとっていき、私を守っていてくれた人たちも、どんどん齢をとっていった。私は、風にだいぶなれた。もう、夜の闇の中で、風の音を聴いて、ぶるぶる震えることはなくなった。駅のホームで、電車の風を受けても、以前ほどは怖くなくなった。
  長い間、私を守ってくれた父が、この世を去った年の春だった。入院中の父を見舞い、帰る途中の道で、ものすごい風が襲いかかってきた。その時、私の近くを歩いていた見ず知らずの若い女性と二人、思わず、近くにあった太い木の幹にしがみついて、身を守った。あの風は、私が強くなっていく途上で吹いた「春一番」ではなかっただろうか。