乱歩とおじさん、そして黒岩涙香のことなど

 
 ある地方都市に住んでいた小学生時代、ラジオから、よく、こういう歌が聞こえてきました。
 
       ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団
       勇気凛々 るりの色
       望みに燃える 呼び声は
       朝焼け空に こだまする


 あの有名な「少年探偵団」のテーマ・ソングです。
次々に美術品をねらう怪人二十面相と名探偵明智小五郎の対決、そして明智の助手、小林少年と少年探偵たちの活躍を描くこのラジオドラマの原作は、第一作「怪人二十面相」が昭和11年(1936年)1月より雑誌「少年倶楽部」に連載されました。少年探偵団シリーズは戦前から戦後にかけて少年少女に人気絶大で、昭和29年よりラジオドラマが始まりました。その後、映画に、TVドラマに、そしてアニメにと、人気は続きました。原作の本は、今も、読まれているようです。
 そのころ、父と母のどちらかから、東京のおじさんは、「少年探偵団」の原作者、江戸川乱歩と友達だと聞いて、びっくりしました。
 江戸川乱歩は、本名を平井太郎といいます。明治27年(1894年)三重県名張町に生まれました。苦学して大学を出たあと、いろいろな仕事を転々とします。大正6年(1917年)、27才の年末よりしばらくの間、鳥羽造船所電気部に勤めましたが、この時、私のおじ、佐藤昌吉が、同じ職場にいたそうです。 
 おじは、明治25年(1892年)の生まれで、乱歩より2才年長です。おじは、私の父の義兄で、祖父(父の父)が、脳卒中で逝ったあと、まだ少年だった父の学資を援助してくれたそうです。
 私が高校1年の時、父が、横浜に転勤となり、私たち一家は、横浜に移り、そして、翌々年より東京に住むようになりました。
 大学1年の秋、神田の青空古本市の会場となっていた錦華公園で、私は、一冊の本を見つけました。題は「有罪無罪」、訳者は黒岩涙香(るいこう)という人で、出版されたのは、明治時代です。原作は、1888年に出版されたフランスの推理小説(当時は探偵小説と言いました)で、“La Corde au cou(首の綱)” 作者は、エミール・ガボリオです。「有罪無罪」は、涙香独特の文体で書かれていて、当時の本の多くがそうだったようですが、総ルビです。装丁は、同じく明治時代の夏目漱石の本などと、いくらか似ています。当時の流行だったのでしょう。値段は、三百円で、学生でも、さほど懐の痛まない価格でした。
 地方に住んでいたころから憧れていた神保町歩きを始めた私は、時々、涙香の本に出会うようになりました。涙香のことは、そのころ、初めて知りましたが、文久二年(1862年)に生まれ、大正九年(1920年)に亡くなった人で、翻訳家、作家、記者として大活躍したそうです。“赤新聞”という言葉の語源となった新聞「萬朝報(よろずちょうほう)」の創刊者でもあります。 涙香は、数多くの欧米の本を翻訳しました。中でも、「岩窟王」(原作は、デュマの「モンテ・クリスト伯」)や、「噫無情」(原作は、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」)は、その邦題で、すっかり有名になりました。また、涙香は、多くの探偵小説を訳しました。彼の訳は、直訳ではなく、原作を読んで理解した上で、あらためて創作していったようで、“翻案”というのだそうです。
 そのころ、私にとっての涙香の“新作”が手に入ると、井の頭公園の近くに住んでいた例の乱歩の友人だったというおじの家に、その本を持って行き、一部を、声に出して読んであげていました。どういうきっかけで、そういう習慣が始まったのかは、よく覚えていません。おじは、神戸製鋼所にいたあと、自営業をしていたようです。仏様と言われていたくらい、温厚な人でした。表情に変化が乏しく、じっと座っていることが多かったのは、あるいは、なにかの病気だったのかもしれません。
 そして、おじから、鳥羽時代の乱歩のエピソードを聞きました。といっても、大したことは聞いていません。よく仕事をさぼって、寮あるいは下宿の押し入れに入っていた、ということくらいです。文筆活動は、もうしていたようですから、押し入れの中で、文案でも練っていたのでしょうか?
 実は、私は、「少年探偵団」は、好きでしたが、乱歩の大人向けの作品、例えば、「陰獣」、「芋虫」、「屋根裏の散歩者」などは、あまり好きではなく、乱歩本人への興味は、それほど強くありませんでした。あとから考えると、もっと、おじにいろいろ聞いていたら、面白かったかもしれない、と残念に思います。
 涙香の翻案小説は、広く読まれたそうで、乱歩も、涙香の本を好み、強い影響を受けたようです。のちに、涙香の翻案ものを、再翻案したりしています。「白髪鬼」や「幽霊塔」、それに「鉄仮面」などです。
 涙香の本は、総ルビでしたから、難しい漢字があっても、難なく読めます。独特の文体は、声に出して読むと、調子がよいので、気持ちがよくなります。私は、楽しみながら読んでいました。
 おじは、私の朗読を、じっと聞いてくれましたが、これといった感想は聞かせてくれませんでした。のちになってから、おばが話してくれたところによりますと、私が帰ったあとで、おじは、「朗読がうまいなあ、あの子は、きっと偉くなるよ」と言ったそうです。それから長い時が流れ、私は偉くはなりませんでしたが、朗読の先生になりました。
 おじは、昭和45年、78才で亡くなりました。おじが入院していた新宿の病院に、母と一緒にお見舞いに行ったことを覚えています。ベッドに横たわっているおじの顔を覗き込みますと、もう話せなくなっていたおじは、私を見て、にこにこっと微笑んでくれました。私は、思わず、わっと声を出して、泣いてしまいました。帰り道で、母が「啓子がまだ子供だと思って、笑ってくださったのよ、いいおじ様ね」と、しみじみ言いました。
 おじは、乱歩にもらった自筆の色紙を「啓子ちゃんは、乱歩のファンだから」と言って、私にプレゼントしてくれました。その色紙には、「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」という句が書いてあり、「佐藤兄に贈る」と添え書きしてあります。
 この句の内容は、乱歩の作風そのものです。おそらく自作なのだろうと思います。多くの人に書き与えたようで、古書市などで、同句の色紙や短冊をよく見かけます。
 こういったもので、贈呈先の人名が書いてあるものは、あまり高い価格にはならないと、ある古書店主から聞きました。価格がどうであろうと、この色紙は、私の宝物です。おじの思い出とともに、ずっと大切に持っていようと思っています。